防災・減災への指針 一人一話

2013年11月16日
「学校」という組織の持つ力
七ヶ浜町立汐見小学校 教頭(当時、城南小学校勤務)
佐藤 郭夫さん
多賀城市立天真小学校 教頭(当時、城南小学校勤務)
早坂 雪男さん
多賀城市立城南小学校 主幹教諭
土居 真さん

停電による暖房の問題が発生

(聞き手)
地震の後、避難してきた住民の方の様子はどうでしたか。

(佐藤様)
皆さん、混乱する様子もなく冷静でした。
私が特に驚いたのは、支援物資がわずかしかないため、子どもやお年寄りの方を優先するようにと言って、遠慮して手を出す人が少なかったということです。
それとやはり、停電で暖房器具がなかったのが一番辛かったです。
また、照明もなかったので、理科室からろうそくと蒸発皿を持って来て、体育館の明かりにしていました。

(早坂様)
何日か前から緊急地震速報が頻繁に発動していたので、その日は、警報が鳴っても油断していました。
カウントの途中で地震が来て、急に強く揺れ出したのを覚えています。
地震が少し収まった時に、校長からの避難指示で、全児童と職員を校庭に避難させました。
その後、雪が降って来て、寒いので体育館に移動することになりました。
泥のついた靴では入れられないので、担任以外の職員と手分けをして床にブルーシートを敷き、子どもたちを外靴のまま、体育館内に誘導しました。
その後、津波で砂押川が決壊するかもしれないという情報が届きましたが、非常に不確かで、どこからの情報なのかもよくわかりませんでした。
職員で話し合った結果、体育館2階のギャラリーに避難しようということになりました。
ここの地区は津波が来た事はなかったので、住民の方々はそれほど慌てた様子もなく、悲壮感は感じませんでした。
しかし、その晩は食べる物がなく、市から支給されたのは、全体でカップ麺10個ほどだけで、それを子どもたちだけに食べさせました。

(土居様)
私は、授業が終わって、職員と学年の打ち合わせの準備をしている時に緊急地震速報が鳴り、揺れを感じました。
職員室に戻って、揺れが少し収まった頃に、校庭に避難するよう放送を入れましたが、すぐに電源が落ちてしまいました。
まだ揺れは続いていて、校庭や校舎の中には動けずにしゃがんでいる児童も居ました。「机の下に隠れなさい」という大きな声が聞こえ、職員室の物を必死で押さえていたのを覚えています。その後は校門に立ち、児童を引き取りに来た保護者や避難して来た方を誘導しました。
児童を引き取りに来た保護者の中には、仙台から歩いて来たという方もいました。
携帯電話のワンセグ放送で情報を確認すると、10メートルの大津波警報が発令されており、一度、家に帰ったものの「怖い」というので学校に戻ってきた子どももいました。
携帯電話の充電が少なかったので、ラジオの情報と聞き伝えから状況を把握していると、津波が到達したとわかりました。
余震が多かったので、校舎のガラスからあえて離れていたりする姿も見えました。その夜は先ほど話が出たように、体育館で、ろうそくや近所の方が持っていたキャンプ用のバーナーで、灯りと暖を取りました。食べ物は、残りごはんのおにぎりを持って来られた方がいて、それをいただき、子どもたちに食べさせました。
震災当日に児童の引き取りに来られず、翌日にようやく来ることができた保護者もいました。
避難されてきた方の中には、ペットを連れて来た方もいて、「迷惑なのはわかっているが、静かにさせるので中に入れほしい」と言われ、かわいそうなので、出入口のそばにいていただきました。
それと、電車を利用して来た東京の方が一組と、七ヶ浜町に帰れない方が一組、仙台市の中野栄方面からは、中野栄小学校に人がいっぱいでこちらに来たという方々や、知り合いを頼りに城南まで来たという人もいました。
学校に来ていた業者さんや職員も校長室に集まり、ろうそく1本で「何が起こるか分からない」などと話をしながら夜明けを待っていました。

(聞き手)
皆さんの様子は冷静でしたか。

(土居様)
皆さん冷静で、パニックになるという人はいませんでした。
また、小学校は前年に体育館の耐震工事を行っていたということもあります。
浮島集会所にいた方たちは、城南小学校体育館が避難所になったことが分からなかったということで、後から移動してきました。夕方には市の職員の方たちも来られて指揮をとってくださり、それから色々と動き出しました。

(聞き手)
地震直後に津波が来るという意識はありましたか。

(土居様)
私は実家が塩釜市なので、チリ地震津波など話を聞いていました。宮城県沖地震の時は津波が来ませんでしたが、これだけ大きい地震なので来てもおかしくないとは思っていました。

学校という組織のメリット

(聞き手)
当時の対応などで良かった点は何ですか。

(土居様)
やはり学校組織だということで、先生方の結束が強かったことだと思います。
3月13日からは、役割のシフトを作成し、3交代制にして、校長先生の指示を受けながら、児童の安否確認、避難所対応など、協力して動いていました。
次の日の3月14日には、市役所の機能を立て直すという事で、市役所に避難していた方たちが移動して来ました。
そのため、体育館に避難した人数が急増し、全体で387人になり大変でした。

(早坂様)
その時に体育館を仕切り直しました。
避難していた地域の方が率先して動いてくださり、それまで敷いていたブルーシートを取り払って掃除をし、厚めのカーペットに替えました。寒さもしのげましたし、うまい具合に通路もできました。

(土居様)
避難して来ているのは、自宅が津波で倒壊したという方や、余震が怖いという事で来ていた方が多かったような気がします。
他の避難所では、プライバシーの課題などがあるとの話を聞いたので、校長先生が一度、他の避難所を視察に行き、活かせるところを取り入れました。

(聞き手)
他の避難所は、トイレで苦労されたケースが多かったようですが、城南小学校ではどうでしたか。

(佐藤様)
地域の方が、プールからバケツで水を汲んで流す作業や掃除をきちんとしてくれました。

(聞き手)
印象に残っていることはありますか。

(早坂様)
被災した方が、やり場のない怒りや不満を、市の職員にぶつけている場面を見かけました。
私たち学校の職員も、被災された方の不満などを聞くことがありました。
市の若い女性職員の方たちや他県から応援に来た方たちが、被災された方の話を聞いて、一緒に涙を流している場面も見ました。
他には、被害の大きい地区や施設から来たお年寄りが体調を崩し、市の職員が無線で救急車を呼んで対応している姿もありました。

衛生面の管理を重視

(聞き手)
 避難所では、どのように規律を取っていたのでしょうか。

(早坂様)
避難所の規律を保てたのは、皆さんが指示する人の話をきちんと聞こうという意識を持ってくれていたからだと思います。
この避難所には、自宅の物が散乱して家に住めない方や、余震が心配という方、他は明月地区からの方たちが避難して来ていました。お住まいになっている地区も違いますし、環境も異なる中、それでも統制を保てたのは、やはり市職員の方が働き掛けて、皆さんもそれに従い、協力し合おうという気持ちを持ってくれていたからだと思います。
あの当時、学校職員は衛生面に一番気遣っていて、トイレはまめに掃除をしていました。
避難している皆さんと協力し、さきほどのお話の通り、バケツリレーで水を汲んで来てトイレに置き、用が済んだら流すというような形も出来ていました。

(土居様)
校長先生は、教職員が、とにかく食べて体力をつけ、避難所の運営や、市職員の力添えが出来るようにと、真っ先に近所のお店を当たって米袋を担いで来てくださいました。

学校における災害用備蓄倉庫の役割

(聞き手)
 多賀城市の、今後の復旧・復興に向けてお考えがあれば教えていただけますか。

(佐藤様)
学校に、備蓄倉庫や備蓄しておく食糧があればいいと思いました。
すでに、多賀城では備蓄倉庫の整備が行われています。

(早坂様)
多賀城市では色々考えて動き始めているので、それに向け協力していければと思います。
後世に伝えたいことや教訓ですが、やはり大変な時にこそ、整然と行動出来るという事が大事だと思いました。
今回の震災で、日本人というのは本当にすごいという事が世界中で感動を呼んだようですが、何時でもそのような姿や心を忘れずに行動していければと思います。

地域との結びつきの重要性

(聞き手)
 震災以降、何か地域との結びつきを見据えた対策を取られましたか。

(土居様)
地震以後、学校としては備蓄品や子どもたちに防災頭巾を用意し、普段から何かあった時に冷静に対応するための災害・防災教育をしています。
停電時に備えて、校内放送が出来るように、各階の階段にハンドマイクも設置しました。
その上で、今後は学校だけでなく、地域との交流が大事になってくると思います。
平成25年11月4日に市主催の総合防災訓練がありましたが、もしもこの辺りの城南・高崎・市川など全部の地区の方が、この学校に集まって来た場合にどうなるのかは未知数なところが多いです。
また、登下校中の災害になると、やはり地域の人たちの協力をもらい、子どもを守るということも出てくると思うので、話し合いをして結び付きを深めていければと思います。
災害は忘れた頃にやってくるといわれますので、子どもたちには、地域がどういう風にして立ち直り、復興していったのかという事を伝えていきたいと思っています。

地名から知る防災の知恵

(聞き手)
子どもたちに、防災に関連する話をされることはありますか。

(早坂様)
授業で防災の話をする機会は多いです。
例えば、多賀城市内にも設置された波来の碑(はらいのひ)などの話をします。ここまで波が来たという「波来」と厄災を祓うなどいくつかの意味があることを教えたりします。

(土居様)
地名の話もします。ここは平安時代に津波が来た所であり、地名が「浮島」なので水害がある所なのかと想像できますし、城南という地名の前に「高平」とついているので、高い所で水が来にくい所だったのかなと、地名を考えると勉強の一つにもなると思っています。

子どもたちの心のケアの問題

(聞き手)
津波を含めた震災の話をする際など、子どもたちに対して気遣っている点は何ですか。

(早坂様)
やはり当時の事を思い出すと思うので、職員で相談しながら進めています。
緊急地震速報を聞くと、気持ちが硬直してしまうような子もいるので、避難訓練では、あの音は使いませんでした。

(土居様)
放射能の問題もあります。
縦割り活動で、野菜などを一生懸命育てていたのですが、それも、今は手を付けられない状態です。

(聞き手)
 他に何か言っておきたい事はございますか。

(佐藤様)
私がとても助かったのは、震災後に市の教育委員会が学校再開に向けて、指示をして進んで動いてくださった事です。
そのため、毎日、校長先生たちが集まって進行状況を確認し、情報交換をしながら、学校再開に一丸となって行動できた事がとても良かったと思います。

(早坂様)
私の妻の実家が気仙沼なので、月に1回は行くのですが、気仙沼の復興状況は、多賀城に比べると進んでいないようです。復旧・復興の地域差が大きいと思います。
ただ、それは、震災の被害が少なく、とりあえず残った家を若干改修して住んでいる自分などがそう感じているだけで、もしかしたら仮設住宅にお住まいの方たちにとっては、復興が進んでいないと感じている部分が多くありそうです。

(土居様)
本当に多くの支援を頂いて、外国の方がバスで来て避難所に物資を届けてくれたりして大変ありがたかったと思います。
避難所にはお年寄りや病気の方、ケガをした人、それから、中には発達障害の子どももいて、普段の生活と違う所で一緒にいて、困難さを味わっている方たちも多いのだという事を感じました。
悲しみや苦しみの違いというのはありますけれども、やはり普段から人との繋がりを持っておくと何かあっても助け合おうという気持ちは出てくると思いますので、学校地域という区別なく、上手く携わっていけるようになればと思っています。