(聞き手)
地震の後、避難してきた住民の方の様子はどうでしたか。
(佐藤様)
皆さん、混乱する様子もなく冷静でした。
私が特に驚いたのは、
支援物資がわずかしかないため、子どもやお年寄りの方を優先するようにと言って、遠慮して手を出す人が少なかったということです。
それとやはり、停電で暖房器具がなかったのが一番辛かったです。
また、照明もなかったので、理科室からろうそくと蒸発皿を持って来て、
体育館の明かりにしていました。
(早坂様)
何日か前から緊急地震速報が頻繁に発動していたので、その日は、警報が鳴っても油断していました。
カウントの途中で地震が来て、急に強く揺れ出したのを覚えています。
地震が少し収まった時に、校長からの避難指示で、全児童と職員を校庭に避難させました。
その後、雪が降って来て、寒いので
体育館に移動することになりました。
泥のついた靴では入れられないので、担任以外の職員と手分けをして床にブルーシートを敷き、子どもたちを外靴のまま、
体育館内に誘導しました。
その後、津波で砂押川が決壊するかもしれないという情報が届きましたが、非常に不確かで、どこからの情報なのかもよくわかりませんでした。
職員で話し合った結果、
体育館2階のギャラリーに避難しようということになりました。
ここの地区は津波が来た事はなかったので、住民の方々はそれほど慌てた様子もなく、悲壮感は感じませんでした。
しかし、その晩は食べる物がなく、市から支給されたのは、全体でカップ麺10個ほどだけで、それを子どもたちだけに食べさせました。
(土居様)
私は、
授業が終わって、職員と学年の打ち合わせの準備をしている時に緊急地震速報が鳴り、揺れを感じました。
職員室に戻って、揺れが少し収まった頃に、校庭に避難するよう放送を入れましたが、すぐに電源が落ちてしまいました。
まだ揺れは続いていて、校庭や校舎の中には動けずにしゃがんでいる児童も居ました。「机の下に隠れなさい」という大きな声が聞こえ、職員室の物を必死で押さえていたのを覚えています。その後は校門に立ち、児童を引き取りに来た保護者や避難して来た方を誘導しました。
児童を引き取りに来た保護者の中には、仙台から歩いて来たという方もいました。
携帯電話のワンセグ放送で情報を確認すると、10メートルの大津波警報が発令されており、一度、家に帰ったものの「怖い」というので
学校に戻ってきた子どももいました。
携帯電話の充電が少なかったので、ラジオの情報と聞き伝えから状況を把握していると、津波が到達したとわかりました。
余震が多かったので、校舎のガラスからあえて離れていたりする姿も見えました。その夜は先ほど話が出たように、
体育館で、ろうそくや近所の方が持っていたキャンプ用のバーナーで、灯りと暖を取りました。食べ物は、残りごはんのおにぎりを持って来られた方がいて、それをいただき、子どもたちに食べさせました。
震災当日に児童の引き取りに来られず、翌日にようやく来ることができた保護者もいました。
避難されてきた方の中には、ペットを連れて来た方もいて、「迷惑なのはわかっているが、静かにさせるので中に入れほしい」と言われ、かわいそうなので、出入口のそばにいていただきました。
それと、電車を利用して来た東京の方が一組と、七ヶ浜町に帰れない方が一組、仙台市の中野栄方面からは、中野栄
小学校に人がいっぱいでこちらに来たという方々や、知り合いを頼りに城南まで来たという人もいました。
学校に来ていた業者さんや職員も校長室に集まり、ろうそく1本で「何が起こるか分からない」などと話をしながら夜明けを待っていました。
(聞き手)
皆さんの様子は冷静でしたか。
(土居様)
皆さん冷静で、パニックになるという人はいませんでした。
また、
小学校は前年に
体育館の耐震工事を行っていたということもあります。
浮島集会所にいた方たちは、城南
小学校の
体育館が避難所になったことが分からなかったということで、後から移動してきました。夕方には市の職員の方たちも来られて指揮をとってくださり、それから色々と動き出しました。
(聞き手)
地震直後に津波が来るという意識はありましたか。
(土居様)
私は実家が塩釜市なので、チリ地震津波など話を聞いていました。宮城県沖地震の時は津波が来ませんでしたが、これだけ大きい地震なので来てもおかしくないとは思っていました。